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武田信玄
時代 戦国時代(室町時代後期)
生誕 大永元年11月3日(1521年12月1日)
死没 元亀4年4月12日(1573年5月13日)
改名 太郎(幼名・通称)、晴信、徳栄軒信玄(法号・法名)
別名 渾名:甲斐の虎、甲斐の龍
「風林火山」を旗印に戦国最強の騎馬軍団を率いた甲斐の守護大名。
上杉謙信とは好敵手で川中島にて四度に渡り合戦を繰り広げた。
人物像を伝える資料に乏しく、性格を垣間見る事は難しい為、
ドラマや小説では上杉謙信との対比で描かれる事が多いが、現在でも
人気のある戦国大名の一人。
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上杉謙信
時代 戦国時代
生誕 享禄3年1月21日(1530年2月18日)
死没 天正6年3月13日(1578年4月19日)
改名 虎千代(幼名)→長尾景虎→上杉政虎
→輝虎→不識庵謙信
号:宗心
渾名:越後の虎、越後の龍、聖将、軍神
上杉謙信は戦働きの逸話などは多く残っているが謎の部分が多い人物でもある。
その一例として古くから「上杉謙信女性説」なるものもあるくらいです。
また現代にまで伝わる故事として、戦国時代にあり、仇敵としていた武田信玄の
領地内で深刻な塩不足が起きて居た。武田家領民の苦しみを知った謙信は武田家領民に
塩を送ったという。その逸話から「敵に塩を送る」が産まれた。
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北条氏康
時代 戦国時代
生誕 永正12年(1515年)
死没 元亀2年10月3日(1571年10月21日)
改名 伊豆千代丸(幼名)、北条氏康
別名 通称:新九郎
渾名:相模の獅子、相模の虎
北条地盤を盤石にした相模の雄。
武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結ぶなど外交に長けていた。
政治手腕に長けていた一方、勇猛で戦上手な人物でもあった。
君主としても上杉謙信、武田信玄に並び称される名君。
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斉藤道三
時代 戦国時代
生誕 明応3年(1494年)?
死没 弘治2年4月20日(1556年5月28日)
改名 長井規秀→斎藤利政→道三(号)
別名 諱:秀龍
通称:新九郎、山城守、左近大夫
渾名:美濃の蝮
一介の油売りから下剋上で成り上がった武将。
領主となった後、まだ若かった織田信長の才能を見抜き
娘の帰蝶を嫁がせる。
低い身分から己の力でのし上がった下剋上の象徴的な人物。
07.09.11 / 未分類 / Author: admin / Comments: (0)

真田昌幸
時代 戦国時代 – 江戸時代前期
生誕 天文16年(1547年)
死没 慶長16年6月4日(1611年7月13日)
改名 源五郎(幼名)、武藤喜兵衛、真田昌幸
大坂の陣で活躍した猛将・真田信繁の父。「表裏比興の者」と評される知将。
後に東軍と西軍で争った際、西軍に信繁、東軍に信繁の兄、信之と真田家を
二つにわけ、結果として家の断絶を回避した。
06.09.11 / 未分類 / Author: admin / Comments: (0)
柴田勝家、織田家の猛将として知られる人物。
ドラマや小説では織田軍の中心人物として良く出てくるが意外と晩年は知られていない。
信長の死後、勝家は織田家の後継者として三男・織田信孝を擁立したが、
織田家中で力を付けて居た羽柴秀吉は摘孫の三法師を擁立し対抗馬となった。
しかし結果は秀吉擁する三法師に家督が移譲され、信長の遺領配分で秀吉に大きく離され
織田家中での立場は秀吉が上となった。
その後勝家は滝川一益、織田信孝と手を結んで秀吉と対抗するが、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、
越前北ノ庄にてお市とともに自害した。
織田家中、筆頭の猛将の最期は自害とは何とも切ないですね。
歴史の中で何度も衰勢を見ているにも関わらずこの手の生涯は多々見られます。
いずれも、コンプレックスや慢心が招き無残な結果となる事が多いです。
仕事をする上で常に謙虚である事で、自分と周囲の実力を見誤る事なかれと思います。
06.09.11 / 未分類 / Author: admin / Comments: (0)
槍の又左衛門ば前田利家ですね。
若い頃は傾いた風貌を好み(傾く・傾奇者:当時の不良の様な若者達今でいうヤンキールック?)
喧嘩を売って回って居たという利家は、織田信長に小姓として仕えた。
若き利家は戦働きに長け、勇猛であった。稲生の戦いでは右目の下に矢を受け負傷するも
なお奮戦し、弓を射た本人を打ち取り信長を喜ばせた逸話がある位だ。
しかし、晩年になると自らそろばんをはじく程、自領の経済にも関心を示し、秀吉より当時の徳川家康よりも
上の身分に任じられた。
今も昔も自分の出自は重要です。出自とは今で言えば学歴。
かつても公家や武家に生まれれば仕官・その後の立身出世は比較的優遇されます。
現在と違うのは一平卒でも農民でも戦で功を立てれば十分に立身可能だったという事です。
実質、現在の学歴は空の重箱で形骸化したものになっている場合は多いと思います。
しかし相対していわゆる高学歴では無い人は沢山います。企業はもっと門戸を開き人を使い
過去や実績に捉われず才能を見抜かなければいけないのではないでしょうか?
06.09.11 / 未分類 / Author: admin / Comments: (0)
前回信長に触れたので今回は、信長を謀反により打った明智光秀に触れたいと思います。
皆さんご存知のように、光秀は「本能寺の変」を起こした張本人であり、結果、本能寺で
信長は最期を迎えました。
しかし、その謀反の動機には今現在も多くの疑問点があります。
怨根説や室町幕府再興説、イエスズ会に絡む説など数えれば暇がありません。
私はどの説を支持する訳ではありませんが、結果としてすべての要因により決行したと考えています。
天下布武の目標を目前にした織田家中で自分の同僚が解雇されれば明日は我が身と不安になり、
その隙に反織田勢力の甘言や大義名分を与えられれば、大それた行動にでる動機は十分です。
光秀は優秀な人物であったと語られていますが最後の大勢を見誤った事により自らの命を縮めた典型の人物に思えます。
私達もいつターニングポイントを迎えるか分かりません。謝る事なかれ!
06.09.11 / 未分類 / Author: admin / Comments: (0)
日本人なら誰しも知っている人物、織田信長。平成の世から見た彼の評は多岐にわたります。
激情家、野心家、冷酷、自分の目的の為には手段を選ばない大胆な男と言うイメージが
近年の小説やテレビドラマなどで織田信長像を作っています。
果たして本当にそうなのか?
信長は確かに苛烈な一面は持ち合わせて居た様です。比叡山の焼き討ち等の当時の宗教団体に
に対する軍事行動等の事案が特に有名です。
しかし、同盟国や和睦をした他国へなど、外交面では信義に厚く律儀ともいえる事実も多いです。
例えば朝倉氏との戦も結果として浅井家をも取りつぶす結果っとなりましたが、織田家は浅井家との
盟約は結びましたが朝倉家との不戦の約定があった訳ではなく、また浅井一族に朝倉へ加担しないよう
何度も書面を送ったと言われています。
また、農民からの信頼も熱く、若い頃より領民と一緒に祭りを楽しんだりして親しんだようです。
結果、桶狭間で領民の離反を回避した信長は、今川家を打つ事に成功しました。
きっと信長なりの恩と情、名声等の計算があってこその行動だと思いますが、歴史の表舞台での政策は決して
信義を失した物ではありませんでした。
この辺りから彼が激情の英傑というよりは緻密な計算により感情も外交のカードにする男だったように思います。
05.09.11 / 未分類 / Author: admin / Comments: (0)
初めまして。私、管理人の総一郎と申します。
今回は日本史、中国史の人物をテーマに生き様から何かを学びたい、何かを得たいと考えブログを始めさせて頂きました。
私は趣味で歴史上の人物を調べていますが、その中で数々の物を得たように思います。
処世術や人心掌握の方法、故事に習いビジネスや人間関係を円滑にするお手伝いが出来れば幸いでございます。
では、いざ。